●佐伯良介 「記憶」の中に記憶を留める 〜『トロイアの女』への旅路を通じて 〜 佐伯さんの文章は書き手の生々しい実感を土台にしながら書くところがあって、 その手触りは嫌いじゃないです。あと忘却の問題は冨久田さんのやつもそうでし たが、わりと今日的だし、多くの読者がまさに忘却している問題なので、扱う素 材としてはいいと思います。ただ、そうした出来事が背景に何を持っているのか、 もうちょっと考えて書くべきなのでは。ごく個人的な体験に対しては注意深くあ ろうとすることができるのだから、世間一般とともに自分が巻き込まれている事 態、環境、状況、社会、そういったものに対する再確認も怠らずにやってほしい。 テクノロジーに対する信頼に裏切られた話まで出てくるのだから(iPhoneのくだ りはそういうことですよね)、そこで何かこの文章全体に関連付けることだって できたのでは。ここまで書けるのだから、やれると思います。 ●原暁海 信と罪体 面白い。前半は現在の思考が常に過去に縛られているということですね。今回の 課題は、実は過去あるいは未来との連続と切断の中から浮き彫りにする形で状況 を語ってほしいという気持ちがあったのですが、それがかなりよくできている。 震災、原発というのはベタだが、少なくとも間違いではない。また文章の最後で 今回の課題のテーマが自然な形で現れるのも理想的である。全体を通して感じら れる実直さ、素朴な力強さも好ましい。だから「我々はむしろ加害者だ」という 言い切りも、説明不足なのだがこれはこれでよい。ただしそれだけに素朴すぎる ものにはなっている。たとえば冒頭のアルバイトの話などは書き手の実感が入る 部分だし、スクラップというバイトの種類なども、文脈性を失わせるものとして 面白く扱うことはできるはずだ。そういうふうに使わないのであれば何のために バイトの種類まで書いたのかがわからない。あと誤字脱字は誰でもやるものです が「ブラックツーリズム」みたいな間違いは閾値を超えると読む気を削ぎますの で注意。 ●上北 千明 後ろめたさの倫理 面白いし、嫌いじゃないし、文章は読みやすく、間違ったことも言ってないと思 うけど、ゲンロンについて知らない人に届ける文章としてはどうなのだろうか。 たとえばインターネットに接続しない人、Ustreamとか見ない人、ニコ生とか知 らない人、UstreamCheckerなんてさほど役に立つと思っていない人、そういう人 を相手に書いているということを強く意識したほうがいいだろう。”東氏が人文 知の重要性を語るとき、それは「後ろめたさ」を抱くための技術のようなものと して語られる”というのであれば、ではこの文章にはどこまでの後ろめたさ、後 ろの目があっただろうか?自分が書いているものがどこに届きうるかを考えない ことはそれは外部のなさにつながってしまいかねず、どうかすると狭い世界での 熱狂にのみ荷担してしまう。思うに、カーニバル的熱狂というのは規模の大小に よって生まれるものではないはずで、ニッチなものを扱うのであればあるほど、 注意した方がいいのでは。 ●野村崇明 10年代の狂った自画像 この短さだけあって論の展開がちょっとせわしないけど、文章が整っているので いい線いっている。おそらく背景として持っている社会問題に対する知識も妥当 なものである。ただ、残念なことに、この文章の中では結論が出し切れずにフワ ッとしている。処方箋を出し得ないことは当然としても、「いろいろ考えていか ないとまずいっすね」みたいなオチだと読んだ人に何かを残すことができない。 少なくともこのテーマでやるなら解決でなくても価値観は覆して未来は示す、み たいなやり方を狙うのがいいのではないか。あくまでその一例としてだが、たと えば今の日本ではどうしたって「萌えキャラ」を自画像として認めねばならず、 かつそうなると、冒頭で挙げた桜や富士山などステレオタイプな日本像が招く結 果の反復として何が起こると予測できるか、などのように書く。 ●豆生田 護 「肉」に負けない人生であるために〜ネット炎上と『俺俺』 前半の説明は丁寧でいいと思います。でも「冒頭から」というのは1000字(全体 の1/5)も書いてからいうことじゃないかもしれない。書き終えてから頭から読 み直すのはもちろんなんですが、たとえばレイアウト的に、あるいは文字数的に、 みたいな感じで見方を変えてみて、「ここは冒頭じゃないだろ」「ここで結論に なるのは遅すぎだろ」などと再検討してみてもいいのでは。そして内容としては、 ネットの匿名性と暴力性について、なのですが、小説の中身は非常に面白そうな んだけど最終的に目指される部分はわりと凡庸ではないでしょうか。たとえばこ こにはツイッター的な炎上の話が書いてあるけど、それは2ちゃんねるの時代と どう違うのか。また最終的にネットと肉(=身体)との対比になってしまうのも 平凡かなと。「匿名での罵倒は自分を失わせる」みたいな、既に誰かが述べた箴 言を繰り返すなら、その言葉を逆から捉えて全然違う解釈と答えにたどりつかせ ちゃうとか、それでも匿名的なテクノロジーを使うことはなお避けがたいという 話になっていてほしい。 ●上谷修一郎 近年の社会「状況」におけるシビック・プライドとアート・プロジェクトの可能性について うーん「こういう試みがあります」みたいな話に終始しているのでは?具体的に 概念としてどう新しいのか、ということが語られていない。それを語らないと、 結果これがたとえば昔からある「町おこし」などとどう違うのかがわからなくな ってしまう。また「社会「状況」」というふうに「状況」をカギカッコで囲って みても、状況を語ったことにはならない。これは今回の課題提出者の多くがそう ですが、皆さん課題が要求している「2010年代の日本の問題点」に対する視線が 弱すぎる。作品を読むのも社会問題を読むのも一緒です。丁寧に考えて、書いて、 いきましょう。「90年代以降の地方分権化による地域間競争の激化と人口減少に よる縮小社会の到来という社会「状況」の中で地方が疲弊し、逼迫している」な どという紋切り型の一行で語ってしまうのは残念。だいたい「90年代以降」とあ りますが課題が問うているのは2010年代ですし。最終的な提言も漠然として具体 的ではなく「そうなったらいいな」というだけのものになっています。 ●菊地 良 我々は亡霊になったJPOPをいまも叫んでいる ある種の美意識で書かれていて、僕はこういうものを読むのが非常に好きです。 しかし美意識に基づくのであればまず、たかだか14000字の文章に序章とか書い ていいのだろうか。自分の書くものを過度に大きく見せようとしているように見 えてしまう(書き手の意思がどうであれ)。また「前論考でも述べたとおり」な ど、課題を無視した記述をあえてやってしまうのはどうなんでしょうか。それは 結果的に批評再生塾の課題という小さな枠組みの中での逸脱になってしまうので、 かえってよくない。分量的にも長大で、デビューを目指す新人作家が言われるよ うに「言いたいことがあるのはわかったから、まずちゃんと削るところから始め ようか」と言われうるものだと思います。「自分の文章にはそれが必要だ」では なく、読者に必要かどうかを考えてあげるべきです。こういうものが書けるのだ から、課題は課題でべつにしてちゃんとやっておいたほうが、こういうものを書 くための基礎体力になります。内容的には間違いなく力強さがあるのですが、ど うやってその力を表に出すべきかをつかんでいないので、結果として文学の死に 対して死んでないと抗弁するような素朴に反動的なスタイルに読めてしまう。他 のものに対してもそうなっている。ちゃんと読者を理解させたいなら、文化とか 社会というものに対してどういう理解をしているのかが示されないといけない。 たとえば「アニメ自体もすっごく面白い」「この作品は原作が犯した失敗をちゃ んと回避できている」みたいなところを掘り下げるとか、「2000年代のJRockを 要約したかのようなラインナップ」というのであればその特徴とは何なのか(ソ ニー最強というのは個人的には意外で面白い)、全く不明瞭。オタク的「幻想」 に回収されなかった「ノスタルジー」としての学生運動とバブル経済がJPOPとし て結実したということの根拠も示されない。説明のなさが漠とした力強さに繋が っている部分はあるはずだが、その程度をコントロールしなければ「何かこいつ パワー感じるわ」という、あらかじめ好意的に自分を読み込んでくれるような読 み手しか読んでくれない(そしてそういう人は何であろうと褒めるので、結果的 に自分は何もなし得ない)ということになってしまう可能性が高い。言葉の使い 方や他人の考えに対する慎重さもさらにほしいところで、たとえばSEALDsが「現 状維持を選択」しているのであればそれが「代替案」なのでは?とか、郵便とい うのは亡霊のように届いたり届かなかったりする(存在するし、存在しない)と いうのがキモなのでは?とか後期デリダへの解釈はこれでいいの?みたいに疑問 点がいくつも浮かんでしまう。しかしこういうものは書かれるべきであり、さら にしかし、これが認められないということに甘んじてはいけない。だからまず思 いがうまく形にならなくとも課題にちゃんと取り組んだ方がいい。 ●岩田 学 データの束としての抵抗 アプリ自体は知らなかったし、面白そうだと思いました。しかしこの話が、とり わけ日本の2010年代に関連することだと、なぜ言えるのでしょうか。これは情報 化が進んでいる他の国でも同じことが言えるのではないですか?大きなテーマに 接続させた文章は今回の課題ではあまりなかったですが、これは結末部、近代的 ヒューマニズムが問題になってくるのがいいとは思うんです。しかしこれを扱う なら、ビッグデータ時代の自然=法則=世界を、近代のそれと比較的に扱わなか ったことがちょっと食い足りない。これがスマホ時代の産物だといいたいのはわ かるのだが、もうちょっと説明があってもよかった。いかにもありそうな一例を 挙げると「スマホというものはボタンがなくて手のひら全体で握るようにして指 で操作するから手に馴染む」みたいな、読み手の五感を刺激するようなところか ら書くとかにすると、うまくスマホ時代を近代と切り離して今のことを扱ってい るっぽく書けるのでは? ●☆大山結子☆おおやまゆうこ☆ 『聖☆おにいさん』にムハンマドは登場するか シャルリエブド事件みたいなところを一切通さずにポストモダン的な宗教対立と かグローバリズムの問題に到達しているのは面白いところ。しかも題材は比喩的 でなくストレートに宗教を扱ったものだというのもいい。そういう意味で突破力 もあるし、広げがいのある文章です。しかし言い換えると後半が大いに失速して いる。まず書き手がこの宗教問題をどう扱いたいのかわからない。どういう描き 方であろうとイスラムの人が嫌がるからこそ対立につながるはずなのに、途中か ら「この作品はこのように読めるはずだ」という、自分の読解に対する無自覚な 信頼が強く出て、そこで終わっている。大山さんは以前の課題も非常に良かった。 しかし「上手く書けているかどうか不安で」みたいなことを言っていたのが気に なった。そこはしれっと堂々としていた方がいいです。書き手が不安がっている と読者はもっと不安です。今回のも「企画」がどうしたみたいなことが書かなく ていい。「ルール」というなら今回の課題のルールを守ってほしいです。自分の 書いている文章がどこに載っているのか、誰が読んでいるのか、なぜ読ませたい のかなどが意識されていないのだと思う。 ●富久田 朋子 「宝石から永遠を引いたもの」と戦争の物語 文章は丁寧ですし、おもしろく読めると思います。が、課題が要求しているとこ ろに届いていない。つまりこれは最終的に作品評になってしまっている。それで いいならいいが、批評としてはそれ以上を望みたい。たぶん書き手も、作品評に なっても意味はないとわかってあがきながら、結局それを発展させるための手法 に持ち合わせがなくてこうなってしまったというところではないか。忘却とは、 確かに今日的な課題ではあるので惜しいとは思う。ただおそらく、この今日的な 課題をもう少し掘り下げ(たとえばこの文章には、どうしてそんな問題が生じて いるのか?なぜ今それが起こっているのか?などが全く書かれていない)、その 上で状況論的に作品読解と接続すればうまく結論のようなものを提示できたので はないかなと思います。 ●野口直希 フェティシズムでは神秘に手が届かない――追い詰められた男の、とある言い訳 なんで小説を書き始めるの?と思って最後まで読んでいくと、なるほどこれが書 きたかったのね、とわかる。そこまで読むとけっこう面白い話になっているので す。しかしそこに至るまで読ませるのでは、遅すぎる気がします。こういう会話 調など平易な文体で評論的なことをやるのはむしろ高度なことをスムーズに読ま せるためのテクニックが必要なのです。どうしてもこのオチにもっていきたいな ら最後だけこの形式でもいいと思うし、もっといいのはいっさい文体で妥協せず、 論文調で愛の告白をした文章の方がずっと刺激的なものになると思う。わりと多 くの課題提出者に見られる傾向ですが(たとえば綾門さん)、自分の書きたいオ チやスタンスのために一番ラクな方法を選ぶのは、「誰でもそうする、安易なや り方なのではないか」とまず疑った方がいいと思います。すると、最終的には 「月がきれいですね」みたいなものもクリシェなのだなという気持ちになって、 もっといいオリジナルな、発展的なフレーズで終われるかもしれない。 ●升本 肉を喰らえ! 文体も構成も、ちゃんと書かないための開き直りとエクスキューズとして機能し てしまっている。思慮があり、読ませる力があるので、もったいない。実のとこ ろ「自分は批評は門外漢でして…」みたいな無頼っぽい韜晦を行いつつ、でも何 かすごいパンチ力があるというスタイルの批評家というのは存在し得ます。しか しそういう人でも毎度「門外漢でござい」みたいに言いつつホントにデタラメや っているわけではないわけで、適当そうに見えてちゃんと基礎的なところが押さ えられているように読めてしまうからすごいわけです。こういうやり方というの はうっかりするとそこを見過ごしてラクができてしまうので、やるなら本気でや るとか、あるいは「ここは鋭く刺す」みたいな部分をきっちり意識したほうがい いでしょう。例示も多すぎるというか、何のために並べるのかわからないです。 そこに意味が感じられればいいのだが。 ●森野祥吾 24時間を24時間30分にする〜フリータイムを求めて〜 時間に追われているというのは現代の西欧型社会においては普遍的な話で、なぜ これが2010年代の日本の話だというのかがわかりません。引用すると「特に近年 はインターネット、スマートフォン等のテクノロジーの発達によりスピーディに 物事を進行させることができるようになった反面、そのスピードについていけな い人も多くおり、時間を効率的に使うことに対して四苦八苦しているのが現代の 日本」とあるのですが、ここで挙げられているテクノロジーが携帯電話であろう が電子メールであろうが電話であろうが新幹線であろうがテレビであろうが時計 であろうが近代的郵便制度であろうが、だいたい話としては成り立ってしまう。 だからこれをどうにかして2010年代の状況という話にするとしたら、作品よりも やはりまず日本の現代社会やテクノロジーについてちゃんと考えて、あるいは状 況、もしくは状況論というものについても考えてとか、そういう下準備が必要で す。そうすれば作品に対して加えなければならない解説の形というのも変わって くるはずです。 ●小波津 龍平 ねじれる日本人 冒頭の軽快な感じは嫌いじゃないです。しかも恋愛論というのは若者が書く批評、 しかも大衆向けを狙うもののパターンとしてはけっこうあり得るものなので、い いと思います。進歩的かつ普遍的な感じはする。しかし残念なことに、年寄りは 意外とそれに乗ってこない場合が多いです。それをふまえて源氏物語とか歴史的 な語りをチラッと見せているようにも思うのですが、これも文化を語る言葉とし ては定型的すぎる感があります。加えてSNSの話にいたっては、この説明ではネ ット世代以外は容易には共感してくれないでしょう。たとえば結婚とか人口とか デカくて日本の社会が直面している卑近な問題につなげてあげるといいのかもし れない。課題のテーマもそれなのだから。しかしそうしたとしても、SNSなどに 対する理解も当代の若者としてはわりと平凡で、若い読者に読ませるものとして も弱いように思う。また、個人的かつ多様化した趣味のあり方というのは、そこ まで最近の話でしょうか?ということはオタク文化が成立したのは平成不況以後 だということ?また恋愛が趣味的になったというのも同様で、ポパイ的なマニュ アル文化の頃の恋愛文化はどう捉えるのか。そんな感じで、書くための土台を全 体的に整えられていないような気がしました。 ●渡辺健一郎 プロゲーマーという思想――「遊び続けること」について 題材の使い方は今時の感じで、いいかもしれません。僕はゲームについても関心 があるので、プロゲーマーという事象にもそれなりに興味があります。ただこの 文章は今日的な文化や社会の背景があってプロゲーマーというものが台頭してい るという話にはなっていないように思います。今回の課題が要求したような、日 本の2010年代以降の問題と接続させて事象を扱っている形になっていない。つま り評論とか批評というわけではないし、どうかすると「昨今にはプロゲーマーと いうモノが登場しています」というだけの、ニュースを伝える文章に近くなって しまっている。この書き方は今日的な話題について書く時に陥りやすいものだと 思います。「2010年代以降」と言われたらとにかく今時の文化の事象をもってき て、今はまさにコレだという形になるのだと思いますが、実はこの課題は、「新 しいものを紹介しなさい」というわけではないのです。 ●小林透 隙間だらけで、切り離された写真を エモさのある文章で、こういうのは個人的には嫌いじゃありません。震災につい てストレートな切実さをまず見せるというのは文章の戦略としてはあり得ます。 しかしその先、事象の扱いに疑問が残る。たとえばなぜクラウドストレージとSN Sを混同しているのだろう?昨今の人がみんな、撮った写真をすべて、instagram などにアップしてコミュニケーションの具にしているというのならわかるけど、 そうではないですよね。つまり「いいね!」疲れみたいな話に結びつけるのは先 走りすぎでは。たぶん、そういうSNS環境に対する世間的な価値観を盲目的に信 頼しすぎていて、それを土台にして批判的な論を作ろうとしているのではないか と思います。ITmediaごときに書いてあるような「時代の意識」にストレートに 乗っかったように読めてしまってはいけないと思いますし、個人的な実感がそれ であったとしても、それが当然のことなのかいったん疑った方がいい。たとえば この文章だと、ネットに接続していない人のことはほとんど考慮されていません よね? ●吉田 雅史 シワとノイズにまみれる選択 〜EN Tokyoが掘り起こす「縁」〜 自撮りアプリという題材の提示はちょうどいいところを突いていると思うのです が、後半にいくにしたがって「あれ、これをどうしたらいいんだっけ…」と書き あぐねた感じに読めてしまう。おそらく課題が何を要求しているのかはわかった のだが、しかしそのためにどういう書き方をすればいいのかはわからない、とい う文章ではないかと思います(冨久田さんなどもそうだった気がします)。まず、 そもそもノイズとか偶然性についての信頼がちょっと強くて、そこに安易に乗っ かっていくにしてもいったんそれを疑ったフシがないなと思いました。書き手が 面白くないと思おうがなんだろうが、人々は粛々とノイズのない世界を選択して いて、それで世の中は成り立ってしまっている。それをひっくり返したいのであ れば、せめて、ではなぜ偶然性が排除されることが問題なのかを書いた方がいい のでは。あるいはそれは本当に今日的な問題なのでしょうか?たとえば浮世絵に 描かれた女性を我々は個別認識できているのでしょうか?自分が当たり前だと思 っていることをしっかり検討しないといけない。ちょっと違うヒントを出すと、 こういうのは二元論で捉えるとあまり面白い結論が出ないはずです。二元論で書 いているように見せつつ、結局その二元論を成り立たせている制度を指摘すると、 うまくオチがつくかなと(そのやり方だけが正解じゃないですが)。 ●なかむらなおき ムラムラしていて困っちゃう 文章としては指示代名詞が多すぎるのと、前後の文で同じことを繰り返して書く 傾向にあるようです。それからこれはTwitterと演劇の感想になってしまってい ます。物事を外部から眺めることが全くない。題材としても自分の近くにあるも のを取り上げたという印象だし、論評としても個人的な感慨に終わっている。た とえば我々の社会がムラ社会化したのは10年代以降のことなのでしょうか?それ は単なるネット時代とはどう違うのか?Twitterによってそれが加速されている というなら、Twitterには社会がそうなっていくような構造があるのだと指摘す べきだが、全くそういうこともしていない。印象に基づいてそう言っているだけ になっている。作品についても、単にそうした現実を反映しているように捉えら れたというだけで、その先がない。そんな作品は演劇でなくても山ほどあるので はないでしょうか?結論も、「こうなればいいなあ」というだけに見えます。自 分の気持ちを書きたいのか、そうでないものを書きたいのか、まずしっかり考え るといいかもしれません。後者であれば、じっと我慢して物事を素朴な実感から 引き離した方がいいでしょう。 ●加藤 尊夫 層 もっと我慢しながらじっくり文章を書くべきです。当然、今よりももっと長いも のになるでしょう。たとえば冒頭「政治的な運動にたいする批判が問題にされて いる。冷笑という言葉で言われている問題である。それが問題であるということ に異を唱えるわけではないが、ここでは、冷笑をする人が問題であるという立場 はとらない。冷笑が問題になってしまう構造に興味がある。」というのは、言っ ている内容が何をさしているのか、読者が歩み寄らないと理解できません。ある いは「SNSでいいねボタンを押すだけ、はてブをされるだけのポジティブな情報 が大量に生みだされ忘れられていく世界」というのも、そういう世界があるとい うことを書き手は知っているのかもしれませんが、その価値観を共有している読 者にしかわかってはもらえないでしょう。まして最終的に「この問題に対する解 決は筆者は見つけていない」というのでは、書き手の頭の中で一時、流れてから 打ち棄てた思考を見せつけられたようにしか読めません。考えていること自体が 悪いわけではなく、たぶん頭の中にはいろんな思考があって、わりと構造的な把 握もある。しかしそれを文章として提示するのがうまくいっていません。 ●木内創太 一〇年代の想像力へ向けて もちろん先行する議論は意識されてしかるべきだと思います。しかしこれらの本 に書かれている文化についての解説をただ知識として仕入れて並べていくという のでは、読者としては別にいいかもしれませんが、次代の書き手となるべき人の やることとしては、足りない。この文章はここ15年ほどの既存のカルチャー批評 の系譜/パラダイムに縛られてしまっていて、結果的にそれ以上の大きな問題、 あるいはそれ以後の時代が扱えなくなってしまっている。たとえば自身でカッコ 書きにしている「2005」「2007」などの文字が、課題の要求している条件を満た していないとは思いませんでしょうか。またアーキテクチャに注目するというの はいかにもゼロ年代後半的な語りなわけで、これをなぞっただけになってしまっ ている。ゼロ年代から状況が変わっていないという話ならそう書くべきなのだが、 そうは言っても濱野智史はニコ生について著書で扱っていなかったわけで、それ については書き手自身の解釈を提示できてしかるべきではないか。どうしてもこ れらの本を文章の中で使いたいなら、たとえばその記述を読み替えたり、組み合 わせたり、書かれた内容と全く違うものに適用したり、そういうことをやって、 自分の論というものを形作ってはどうでしょうか。 ●横山宏介 誰か、女王を見守り給え いい線いっているとは思う。小説の解説としても面白そうだなと思わせる。ただ、 小説の解説にこれだけの幅をとったにしては、結論がすごく短い。短い上に最終 的には「判断が付かない」というオチだと、いかにもとってつけたように読めて しまう。「監視記録を、視線に晒す」みたいな、読み手にフィードバックさせる ような書き方もあまり効果的ではない。こういうのはけっこう皆さんやられてま すけど、かなり周到にやらないと一発ネタみたいになって、逃げを打ったなとい うふうに見えてしまいます。ではどうするか。いったん書いてから、結論のとこ ろだけ(この文章で言えば「あるSF作家はこう言っている」から先)を切り取っ て、どこか文章の妥当な場所(後半以降)に挿入しましょう。で、そこから「真 理を真理と判定する術がない」以降を改めて書き継いでいくのはどうでしょうか。 要するに、一言で終わりにしようとしたところをガマンして考えていくのです。 そうすると、小説の内容についてもこれだけの詳述が必要でないこととか、むし ろ社会やテクノロジーについてももう少し考察を盛り込んでいかねばならないこ とがわかってくるかもしれません。 ●綾門優季(あやとゆうき) 「疑心暗鬼的メタシアター」 各作品が非常に面白そうに書けている。しかしあまりにも散発的に作品名を挙げ ていってしまい、要するに演劇にしか興味がないという印象。実際、語るべき日 本の問題点については「世界への疑念や人間への不信」とかごく単純な言葉で語 ってしまっている。それのどこが2010年代的なのか?メタフィクションが現実へ の不信に基づいているというのならそこそこ古典的で、昨今の、日本の、若者の、 作品にどのような社会との結びつきが表れているのかが不明。たとえば実存主義 に影響された演劇などとはどう違うのか?「全然違うし」と思うかもしれないが、 文章からそれが読み取れないと定義にならない。それに関連して「疑心暗鬼的」 「メタシアター」という言葉が選ばれる根拠が確固としてなくてはならない。徐 々に物語がほころびていくというのなら、たったひとつ、その例示が一作品だけ あれば十分。なのにいろんな作品のバリエーションを詳細に語って、そのわりに 結局のところ言葉の定義になっていない。おそらく文章のプロットがちゃんとし ていない。「こういう芝居なんです」と語りたい気持ちが前に出すぎ。たとえば 柿食う客の段落、これを読者に一気に読ませるのはきついだろう。演劇論の書き 手になるならいいけど、それだけでは今後の演劇にとっても批評にとってもあま りよろしくない気がします。最後でいきなりラノベの話になるのも乱暴で、フィ クションそのものについて語るならぶっちゃけこれはもう社会とは何の関係もな い話になってしまう。 ●遠野 よあけ ネットワークが名指す場所と、場所が呼び寄せるネットワーク ネットワークが場所を指示するというのは面白い視点、いい発想だと思います。 しかし書き手自身が指摘しているように、それは携帯電話でもよかったわけで、 明確にLINEなどと分けた解説がほしかった。また、モチベーションも再びネット ワークが与えてくれるというのはどうなのか?その根拠が書かれていない。むし ろネットでは(冨久田さんや佐伯さんが指摘していた忘却の問題にも関係するが) モチベーションが持続しないことが問題のようにも思える。たとえば『ONE PIEC E』につなげるのであれば、作中で今日的なテクノロジーと同様のものが意識さ れていると類似性を語りつつ、では作中人物のモチベーションがどのように供給 されているかを検討すべきなのではないか。もっとも、あの作品だとわりとすぐ 「仲間」云々というありがちな語りが出てくるので、工夫しないといけないとこ ろではある。それをそのまま「ネットを通じて仲間意識が強化される」とかに置 き換えても、やはりあまり面白くないですしね。そして最後の文学フリマについ ては、明らかに練りが足りていない。たとえばコミティアだって各地でやってい ますよね。また文学フリマが地方開催によって確実に規模(≒社会的プレゼンス) を拡大したとも言いがたい。各地が連携して動いているわけでもない。こういう 話がしたいのなら、発想は文学フリマだったとしても、書く時にはもっと適切な 何かにしなければならないのではないかと思います。